僕は小学校までは兵庫県西宮市の
大森一樹くん(あえてくんづけで呼ばせてもらうけれど)は芦屋市立精道中学校の三年後輩にあたる。三年違いなので、担任の先生もたまたま同じで、初めて会ったときその話になった。彼の話によると彼は入学してすぐに僕の話を聞かされたということだった。「ハルキさんは伝説的な有名人だったんですよ。ものすごくたくさん本を読んで、すごい文章を書くってことで」と彼は言った。僕はそれを聞いてすっかり驚いてしまった。僕は確かに中学生の頃からたくさん本を読んでいたし、文章を書いて褒められたことはあったけど、いくらなんでも「伝説的な有名人」はないだろうと。でもとにかく大森くんの話ではそうなっていた。
最初に会ったときから話は合った。なにしろ「横にぶつ切りされた」小さな街で、同じ空気を吸って十代を過ごしてきたのだから。そしてまた二人とも映画が好きで、神戸の映画館のことならば隅々まで知っていた。とくに場末の映画館が我々の好みだった。安い料金で二本立てか三本立ての見られるところ。芦屋会館というおそろしくうらぶれた映画館(街の雰囲気にはそぐわなかった。今はもちろんない)で『007危機一発(「ロシアより愛をこめて」の当時のタイトル)』を見たという経験も共通していた。
彼は小説『風の歌を聴け』を映画化したいということで、僕に会いにきたのだが、当時の我々はどちらもまだ「駆け出し」の時期だった。彼は『オレンジロード急行』『ヒポクラテスたち』で本格的映画監督デビューを果たしたばかり、僕は処女作『風の歌を聴け』を出版したばかり、立場もだいたい似たようなものだった。僕は『ヒポクラテスたち』を見て、その感性の新鮮さにすっかり感心してしまった。彼もまた僕の本のことを気に入ってくれていて、「この世界はきっと僕にしか描けません」みたいな話になった。同じ空気を吸って育ったものとして、ということだ。
映画『風の歌を聴け』で大森くんはいろいろと実験的な試みをおこなった。『ヒポクラテスたち』とはぜんぜん違う世界を描こうとした、ということなのだろう。フランスのヌーベルバーグの手法を積極的に取り入れたり、とにかく斬新な感覚を駆使して僕の小説世界を映画に移し替えようとした。それが意図通り面白い効果を上げている箇所もあったし、今ひとつうまくかみ合っていないと感じられる箇所もあった。この作品の世間的な評価がどうだったのか、商業的な成績がどうだったのか、そういうことについて僕はほとんど何も知らない。ただ評価が賛否両論であっただろうということはおおよそ想像がつく。
大森一樹くんのこと、村上春樹さん寄稿…同じ空気の中で過ごした十代と「駆け出し」だった頃の記憶 - 読売新聞オンライン
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