東南アジア研究が専門の慶応大学名誉教授が三味線と長唄を織り込みつつ講演会を粋の世界に誘っていた。お題は「明治時代の『空気』に触れる試み」。日本国史学会の会員を相手に大津絵節の黒船来航や鉄道唱歌までお披露目した。
小唄ファンの筆者は、講演を収録したDVDを見ながら、思わず拍手を送ってしまった。演者の野村亨さん(71)は「楽しくなければ学問じゃない」とばかり落語、漫談調で会員たちを引き込んでいく。
いったい明治の庶民生活の空気感とはどんなだったか。野村さんは12歳まで同居していた祖母、友山ふくから聞いた口頭伝承を「疑似オーラルヒストリー」として再現していく。一般に近現代史のオーラルヒストリーは、政治指導者からの口述記録が多い。いわば上部構造の歴史で庶民の時代感覚にまでは及ばない。
歴史を動かす人々の考えと、それを見つめる庶民の肌感覚は違う。どうやらこれが、三味線と長唄を巧みに操る野村先生の問題意識であるようだ。
例えば、嘉永年間の黒船来航は、江戸城の幕臣たちが上を下への大騒ぎをしたが、庶民は必ずしも怖がっていない。有名な狂歌には、「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」との風刺がある。野村さんはそれどころかペリー提督の一行をばかにしていたフシがあると推理する。根拠は大津絵節の「黒船」にあった。
「じゃがたら唐人が海を眺めて、銅鑼(どら)、鐃鉢(にょうはち)を叩(たた)いてチクライ チクライ 金毛ぱあぱあ、アメリカ指して、貰(もら)いし大根土産に持って走り行く」
当時の外国人といえば中国からの唐人だったが「じゃがたら唐人」とは毛むくじゃらのひげを蓄える毛唐(けとう)、つまりは白人を指していたようだ。
そのペリー来航時の毛唐が、大根をもらって喜び勇んで帰っていったと大津絵節の替え歌でちゃかした。これを野村さんは、縁ある芸者に謡ってもらって録音し、自らもこれを謡う数少ない一人だ。
祖母の友山ふくは明治14年、東京市芝区三田四国町にあった砂糖問屋「三河屋」に生まれ、番頭、小僧、女中に囲まれて育った。福沢諭吉の慶応義塾に近いから、彼が書生を連れて店先を歩く姿を目撃している。
福沢はいまでいうホームレスに小遣いを与え、病院を世話していたこともあったから、口さがない庶民は「福沢の落とし子か」などとウワサした。福沢は明治の「文明開化」を、魔法の呪文に仕上げた時代の寵児(ちょうじ)だ。ところが江戸っ子は、彼を人間臭いレベルにまで引き下げ、好奇心を刺激していたようだ。
明治人の敵は江戸から続く火事である。テレビのない時代だから「火事は何々町!」と大声で触れ歩く人がいる。半鐘の打ち方一つで、火事現場の遠近が分かったそうだ。
文明開化といえば明治5年に新橋駅が開業した。陸蒸気(おかじょうき)には親しみを感じた庶民は「さぞ熱かろう」と機関車に水をかけてやったという逸話が残る。
祖母のふくは、よく鉄道唱歌を歌ってくれた。野村さんいわく、明治33年発表の鉄道唱歌は東海道編だけで66番あり、これを全部覚えて、後に倅(せがれ)の子守歌に使った。唱歌は「汽笛一声新橋を」で始まって神戸まで30分かかり、「今日は浜松で眠ってくれた」などと喜んだ。
さて、気の弱いふくの父親が三田の家を出て、「三河屋」は、番頭に乗っ取られる大事件が起きた。やがて明治36年、ふく22歳の時に渋谷の金王(こんのう)八幡宮の神職、友山照彦に嫁いだ。神楽の家元でもある。家は広尾にあり、周りには茶畑が広がっていた。
照彦はしばしば品川の遊郭に遊び、歌舞伎役者に弟子入りする道楽者だった。挙げ句に市川猿五郎なる芸名で浅草の芝居に出演していたほど。ふくの生活費は嫁ぐときに親が持たせてくれた麻布の借家の家賃収入で賄ったという。
野村さんの疑似オーラルヒストリーからは、明治男のうらやましくも豪胆な一面を垣間見ることができた。だが、時代は激しく変化する。
今となっては文字通り、中村草田男のいう「降る雪や 明治は遠くなりにけり」なのでしょうね。
【東京特派員】明治の空気に触れる試み 湯浅博 - 産経ニュース
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