青々とした杉木立を縫って吉野川が流れる。手漉き和紙の里、吉野町国栖地区。上窪良二さん(77)の紙漉き工房は、清流を見下ろす高台にある。
「壬申の乱の際、吉野で挙兵した天武天皇が、乱に勝った後、紙漉きを伝えたといわれています」。吉野の紙漉きの始まりについて、上窪さんはこう説明する。
紙漉きは飛鳥時代の7世紀、中国から日本に伝わったとされる。伝来から間もなく、コウゾなどの材料が豊富な吉野で作られるようになり、飛鳥の都に供給されるようになったのだろう。
上窪さんが妻久子さん(70)と漉くのは、表具に用いられる美栖紙。丈夫で柔らかく、掛け軸や巻物の裏側を補強する「裏打ち」の素材に最適だという。
湧き水と谷川の水でさらしたコウゾを灰汁と一緒に煮て柔らかくする。柔らかくなったコウゾをたたきつぶし、こなごなの「紙素」にする。カキ殻で作る白い顔料「胡粉」を一緒に混ぜて水の中に入れ、すだれの上で縦方向にだけ揺らして漉いていく。漉き上がったとき、繊維を縦にそろえるためだ。
「簀伏せ」といって漉き上げてすぐ、ぬれた紙を直接板に張り付けて天日干しするのが特徴だという。使うのは縦約150センチ、横約30センチの松板約200枚。200年使っているものもある。板に張った後、刷毛で気泡を丁寧に抜いていく。好天で2~3時間、曇天で1日かけて乾かす。雨が降ると台無しになってしまうため、天気予報に細心の注意を払っているそうだ。
明治中期まで約300戸が紙を漉いていたというが、現在では5戸に減った。美栖紙を作っているのは、上窪さんだけだ。
国宝の掛け軸などの修理を手がける「国宝修理装■師連盟」(京都市)から紹介され、2018年から大阪市出身の布谷晴香さん(26)が後継者として修業を積んでいる。「厚い紙ならだいぶ漉けるようになってきた」。上窪さんは目を細める。
後継者の確保だけではない。材料となる国産のコウゾやノリに使うトロロアオイの入手も難しくなってきた。文化庁に相談しながら、どうすればよいのか調査しているところだという。
吉野の清らかな水と澄み切った空気にはぐくまれてきた手漉き和紙。いつまでも生業として続けられるよう模索が続けられている。(この連載は関口和哉が担当しました。今後、随時掲載します)
<メモ> 大きさは縦24・8センチ、横64・8センチと決まっており、厚さによって「極薄」から「極厚」まで約10種類ある。用途によって胡粉の量も変えている。国宝修理装■師連盟の工房に9割以上を納めており、一般向けの販売や工房の見学は受け付けていない。
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<6>清流と空気 紙漉き育む - 読売新聞
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